私はいかにしてヲタになりえたのか③


 2000年武道館公演の前になりますが、FC入会後、初青封筒が届いたとき、湯沢でのコンサートがあったので、湯沢くらいだったら車ですぐいけるだろうと思いFC先行で申し込みました。
 きたチケットはブロック指定でAブロック。昼公演のみだったのですが、少しでも前にいければと思い、会場には午前9時ころに行きました。それから延々6時間近く待ち続けた結果、ほぼ最前列を確保することができました。
 このとき、第2の転機となる?ことがおきたのです。結成間もない2期タンポポの「乙パス」のステージが始まったとき、背は小さかったのですがそんなことは関係ないくらいほどなんともいえないきれいな方がそこに立って歌っていました…。矢口さんです。これ以来、心のどこかに矢口さんのことが引っかかるようになっていきました。もちろんこのときはまだ圭ちゃん押しだったですけどね。
 このときは会場も狭かったので、いろいろな貴重な体験をさせていただきましたねwごっちんかおりんとはしょっちゅう目があって、かおりんなんかは終盤にはお互い「また目が合ったねw」みたいな感じにもなっちゃったし。それに対してなっちや矢口は会場の後ろのほうばかり見て直下には全く目線を下ろしませんでした。
 「モーコー」の間奏あたりのとき、矢口と裕ちゃんが上手後方付近に背中合わせになっていたのですが、そのとき矢口と裕ちゃんがちょこちょこっと私語をしていたのですね。これは珍しい光景だ、と思ってじーっとみていたら、矢口が私の視線に気付いてあわてた顔になって、「裕ちゃん、裕ちゃん!」みたいな感じで裕ちゃんの腕を軽くポンポンとはたいてちゃんとした振りにもだったり、ということもありました。これは今でもはっきりと覚えています。4期はまだいっぱいいっぱいでしたねw


 その後は、1ツアーに1公演東京公演あたりと東北の近場にきたらそこに1公演のみ行く程度のペースで参戦していました。仙台でのコンサートは、当時いろいろと諸事情があっていくことができず、基本は遠征でした。

 
 ただ、あの湯沢公演以来、2期タンポポのCDがリリースされるたびに、どうしても矢口さんの方に少しづつですが気持ちが傾いていったのは事実です。2001年前後の頃には「圭ちゃん1押し矢口2押し」と言っていたような気がしています。
 その後、この順番が決定的に入れ替わる決定的なことがありました。2001年のライブレボルーション(春)のとき、圭ちゃんがバッサリ髪を切ってショートにしたのです。どうやらなっちのまねをしたらしいという噂だったのですが、どうしたことかこれで私は圭ちゃんから完全に心が離れてしまい、これかからは矢口押しでいこう、と決意したのでした。ちょうどそのころ、圭ちゃんがいわゆるキャラ立ちし始めたときでもあり、そういう圭ちゃんは私は求めていなかったんでしょうね、深層心理では。
 そしてこのツアーのときは、あのハロプロ運動会初代Tシャツを周りでは着始めていたときでもありました。メンバーの名前が前後にばっちり入っていて、誰押しか分かりやいではないか。これはいいなぁ、と心がときめいてしまいました。
 そこで運動会「145」Tシャツを自作して、2001年夏ハロプロではそれを着て参戦しました。
 

 モーヲタhottaの誕生ですw


 どこでヲタになったか、というのは人それぞれだと思うのですが、私の場合は、いわゆる「ヲタTシャツ」を着始めた時点で自分はヲタになった、と思っています。私はこの後のツアーから昼夜連戦もするようになり、だいぶ活発に遠征等をするようになります。やっぱり私の場合はこの時点ですね。


 ここでひとつ迷っていたことがありました。それはハンドルをどうしようか、ということです。「hotta」は圭ちゃん押しだったからつけたハンドルであって、矢口押しに変わったら、やっぱり矢口さんにゆかりのある何かにすべきではないか、と思っていたのですが、いいものが思いつかず、またこの時点で結構呼ばれ慣れていたので、別にいいや
と思いそのままで通しました。



 ということで、ヲタになったいきさつを随分延々と続けましたが、次回は矢口ヲタとしてのhottaについて書いていきましょう。