長野紺に行ったこと

 先日長野紺に行ってきたときに撮ってきた写真がありますのでそれをご紹介。といっても1枚だけですが。


長野県県民文化会館遠景。
実はこの日デジカメを持っていくのを忘れてしまい、長野駅前の写真屋さんで「写るんです」を久々に買って撮ったものです。よって写真の写り具合があまりうまくないです。
 写真の下のほうにはヲタ諸氏の姿が。ちょうどこのとき昼公演が終ったところで、これはその戦いを終えてきた勇士たちの姿です。みんな満足げそうでした。
 この会館の2階に喫茶コーナーというか食事をできるお店があり、外からも見ることができるのですが、みんなヲタだらけw
 本当はもうちょっと全体が入るように撮りたかったんですが、ちょうど太陽が正面に来てしまったのでこれが限界でした。


この夜は長野市内に宿泊、次の日は信州上田に行ってきました。


上田城本丸櫓門、北櫓と南櫓。
徳川の軍勢を二度も追いやった真田氏の名城上田城の本丸の入り口。しかし本丸の建物は江戸期を通してこの二つの櫓ともう一つ西櫓とよばれるものしかなく、本丸内には建物らしい建物はほとんど存在しなかった。よって、当時本丸内は木々が鬱蒼と生い茂りカラスなどの野鳥には絶好のねぐらだったらしく、本丸の番人役は「烏の番人」と揶揄された。



藩主邸跡。現上田高等学校。
徳川方についた真田信之関ヶ原後本領を安堵されるが、御殿を本丸におかず三の丸に新たに御殿を建設した。真田氏移封後、仙石氏、松平氏と藩主が変わるが、いずれの藩主も本丸には御殿を建設せずこの三の丸の屋敷に住み、藩庁もここに置いた。本丸に何も建物が無かったのは、これに由来する。
 信之はなぜ本丸に御殿を建設しなかったのかというと、父昌幸、弟幸村が豊臣方についたため、家康に遠慮したものといわれる。なお、昌幸時代には本丸にも何かかしらの建物があったらしいが、関ヶ原後の徳川方の接収の際破却され、その後信之に引き渡されている。
 その後に入った仙石氏は本丸の復興を図ったが、堀と櫓のみの復興だった。



なんの変哲も無い橋なんですが、この橋、「高橋」といいます。それだけ。
川*’ー’)<やよ?